音圧云々の話、もう僕は降りようかな・・と思った。

音圧がーっっていう話題が定期的にTWで回ってくる。

それをみると、みるたびに疲れてしまう感じがある。

なんでかというと、プロダクションがどこを向いているかで何を正義とするかが全く違っているのにも関わらず、そのプロダクションの多様性を容認できてない節があるように感じるからだ。

容認できる一つのゴールに向かって、そうではない価値観を批判することで風潮を変えようとしていのかもしれないけれど、それでは風潮が変わっていかないことがわかってしまい、ツラくなってしまう。
風潮を変えたいのなら、現実のプロダクションと相互理解を進める以外、方法は無いんじゃないだろうか。少なからず、過去作の批判という形では人は変われない。

 

僕は実名でTWをやっているし、実際に手がけている肌感覚との違和感をTWすると、妙に「ああ・・この人、マスタリングしてるのに、全然わかってないんだ・・・」みたいな視線を受けるような印象があり、正直それにげんなりしている。

 

どこまで音圧を入れるか?というのは結局のところ、大きな音量を再生できない機器にどこまで対応するか?というのが本質だ。

それは、誰に喜んでもらいたくて、その音楽作品が作られているかで変わってくる。

高音圧が良しとされるものもあれば、リスナーにとって高DRであるほうがより作品の良さが伝わったりするケースもある。

作品次第、描きたいモノ次第の話だ。

 

であるにも関わらず、結局、どのジャンルのなんの作品なのか?を伏せて議論をしていると、ただのレッテルの張り合い、宗教戦争のようになってきてしまう。

「音圧肯定派」「半音圧派」みたいな感じで。

それは馬鹿げていると僕は感じる。

 

必ずこうでなくてはいけない。こうあるべきだ。をアートの世界で振りかざしてしまえば、「ただ、違う価値観」を容認できなくなってきてしまう。

これは結局、音楽表現の幅を狭めることになってしまわないか?というのがまさに僕が危惧しているところだ。

 

僕は、リミッターにただ思いっきりぶっこんだだけの音だとか、マスターでとりあえず上下バッサリ切ってコンプぶっこんだだけの仕上がりは、個人的には全然好きじゃない。

そういう音が、国際的な競争力を持てるとは到底思えない。

そして、それらの音をかばうことで僕にメリットは一つもない。

僕もまた、DRに余裕がある音楽が好きだし、そうなってほしいと切に願っている。

 

しかし、一方で、何がベストか?というのは、結局、リスナーがどうやって音楽を楽しでるか次第であって。その目線を持っているから商業リリースなのだ、という視点があることを忘れないでほしい。

皆がイヤフォンで聴いているなら、そちらに寄り添うべきだし、ハイファイで聴いているならハイファイに向けてリリースをするといったマーケティングの結果としてのジャッジというのが存在している。

実際、そういう判断で、音の傾向を修正したしたケースを僕は結構な数、経験している。どれとは言わないけれども。

 

もちろん、本来ならば、どこで聴いても悪くない。

これがベストだ。

あるいは、音質を最大限に活かすことを良しとする世界が来たらいいなと、僕も思う。

 

ただ、そうなるには日本の音楽の世界は少し根深いものを抱えすぎている。

「芸能としての音楽」と「文化としての音楽」では目指す方向性が全然違うのだ。

この二つは綺麗に分かれる概念ではなくて、あくまでもグラデーションを描くベクトルと考えてほしい。

 

だいたいにして、批判の対象になっている音楽プロダクトというのは芸能的な価値観のものが多いんじゃないかと想像する。

その結果を、あたかもプロダクションが悪い、エンジニアが難聴、Dが無能みたいな話をみていると、ちょっとそれは結論の結び方が違うんじゃないだろうか、とも思うのだ。

単純に、あなたの環境が残念ながらターゲットから外れてしまっている可能性がありえる。

 

ハイファイで再生されることを前提とされていないプロダクトは、誰もが簡単に手に入る環境でうまくかかるように設計されているので、もしかしたら安いイヤフォンで聞く方がその作品を楽しめるかもしれない。

 

特に芸能よりのプロダクトというのは、車のモノラルスピーカーでかけてみんなで歌ったりだとか、店舗での超小口径なスピーカー、あるいは街灯スピーカーで少しでも多くの人に届くように工夫がされていたりする。

そうすることで、人を集めて、集客することを前提とした製品設計になっている。
音についても、そっちの方向に特化した、進化の仕方をしている。

 

僕は、それ自体は悪いことだと思わない。

芸能の世界の音楽というのは、その前提があるから成立している。

もちろん、いい音であればそれに越したことはないし、少しでも良い音になるようにフロントで努力しているエンジニアがいることを僕は知っている。

 

そこがわかってくれば、実際には音圧があるのが良い、悪いみたいな単純な二元論では音楽を語ることはできなくなってくる。音楽に求められている役割が単純に違う。
それを同じ土俵で語ろうとするから二元論に陥ってしまうのだ。

 

繰り返しになるけれど、僕は国際的な競争力を持った音を日本は作っていかなければいけない論者だ。そのためにはDRを製作陣が理解する重要性については大いに賛同するところだし、もっと言えば、音楽の文化的側面にもっとスポットライトが当たるべきだと思っている。

しかし、今日の制作環境や、数多くのプロダクションがあるのは、芸能の世界があってこそであるということも忘れてはいけないように思う。少なくても僕は、そこに対して深い感謝と敬意を持っている。

 

だから、安易にそれらが批判されているのを、どうしても見過ごすことができない。

僕らはその作品たちがあったから音楽をやっていけてるし、今という土台を築いていけている。それに、その作品でたくさんの人がご飯を食べていける。 

尊さ、その意味では、芸能のプロダクトも文化のプロダクトもあまり大きな違いは無いと僕は思うのだ。

ゆえに、デメリットしかないところについ、噛み付いてしまう。

 

そういうわけで、見るたびに前提が共有できていないと疲れてしまう音圧の話については、僕はもう、ちょっと白旗を上げても良いのかな?なんて思っている。

説明をすればするほど、この人は、音圧肯定派の人なんだ、とか、音が悪い人なんだ、であったり、わかってない人なんだ・・とは思われたくないからね笑