引っ越しを決意した話。
なんだかんだで、1月も半ばを過ぎてしまった。
妙に目が覚めて寝れないので、あてもなくしたためてみようと思う。
これは別に誰にあてて書くわけでもないから、乱文雑文すいません・・というところで。頭の中に浮かぶことをそのまま描く。
僕は去年の3月、世田谷区に引っ越してきた。
お上品な街だ。なんでも徒歩でそろうし、いいものがこの街には競うようにして運ばれてくる。
俗にいう世田谷ライフってやつだ。
ところが、新婚旅行で黒川温泉にいってから、都会であればあるほどいいという価値観が崩れてしまった。
黒川温泉からは阿蘇山と黒川の渓流、両方をみることができる。
自然と温泉街の賑わいが窓から見えた。
その時に、ああ、ここに全てがあるんだな、と思った。
自然は決して繰り返すことがない。
木々の揺れ、川のせせらぎ、そのどれも同じようでいて二度と同じ瞬間は訪れない。
その刹那の繰り返しが奇跡のような調和でイマを形作っている。
そこで何も考えず10分過ごした。
命とは、つまりそのようなことではないかと考えた。
僕らは漫然と自ら定めた、定められたルーチンを過ごしているが、それもまた同じようでいて、全てが違う。
しかし、全てが嚙み合っていて、小さな力や影響が今日も世の中を動かしている。
滞りなく、その状況が続くシステムを設計することはどんなに人が優秀であったとしても成しえることはできないだろう・・・。
完璧に、しかしあいまいに設計された全体性。
人工物にはそれがない。
だから、命の軌跡が薄い。
あるけれど、ない。本質的には。
そう感じた。
昨今、多様性が議論にあがっている。
どこまでを許容できるのかが勝負のポリティカルコレクトネスに疲れた世界は、アイデンティティーを探しなおすがごとく自国に立ち返っていった。
しかし、その結果分断が起きて、相互への許容と理解を捨て去ってしまったように僕には見える。
これは、日常生活のデジタル化が進んだことによる弊害ではないだろうか。
ふと、そう思った。
自然に耳を傾け、その有様を見る時間は現代人にはなくなってしまった。
命に触れ合う機会が少なくなった結果、膨大な歴史の中で、自分に命があり、相手に命があることを忘れてしまったんじゃないか。
そんなことを思いながら旅を終えた。
ところで、1月の終わりから2月の前半の間で、僕に子どもができる。
性別はまだ伏せておこうと思うが、無事に生まれてきて欲しい。
それだけを願っている。
さて、子育てをするうえで、どういう環境がいいのか?
僕は以前は便利な方がいいと考えていた。
便利であればあるほど、ロジカルに考えれば家庭の時間を割くことができる。
そうしたほうが家族にとっていいだろうと。
でも、果たして本当にそうなのか?と旅行で感じたことが引っかかる。
その考え方そのものが、デジタル的なんじゃないだろうかと少し懐疑的になってしまった。産業革命以降、効率を追い求めた結果が、今の社会だ。その延長線上に我が子を送り出したいか?と言われれば、僕はそう思わない。
僕は、僕以上に想像力を持った子を育てたい。
僕ではとても思いつかないようなことを、ハートで正しいと感じたことをできるような子に育てたい。
そう考えたときに、幼少期のまだ意識がないころから身近に命に囲まれているほうがいいのではないかと思い直した。
自分がオリジナルだと感じられる環境、同時に他者がいるから自らがいると感じられる環境・・・。
僕にとっては、黒川で感じた自然の調和がそれだった。
というわけで、来月から郊外に引っ越すことを決意し、昨日物件を決めてきた。
職場は少し遠くなってしまうけれど、いい結果に転ぶことを願う。
やたら長いけれど、お引越しの話でした笑
いくつか、頭の中で考えていることがある。
未来の自分に充てて、忘備録的に。
機会があれば、また書いてみようと思うけれど、文章力が追いつくがどうか非常に怪しい・・・。
・寄付をベースにしたレーベルの設立とボランティア
・インディペンデントなPRの手段と、クリエイティヴツールとしての音楽
・民主的インターネットとダークウェブの価値の逆転
・ドナルドトランプと西郷隆盛の流儀
・アビダルマ思想と神の愛
・心で正しいと思うことと、頭で正しいと思うことの違い